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澪『永遠にともに』 アニメキャラの体験談

1:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:15:51.94ID:IOd+VqaJ0

季節は冬。



雪が降らないと誰もが思っているようなこの街にも数十年に一度の気まぐれなんて物があるようで、日本一の歓楽街と揶揄されるこの街は一昨日からの豪雪により薄い白粉なんかを纏っていた。



今日はクリスマスからマイナスすること十月十日。先のそれと並び立つ日本の二大恋愛デー、聖バレンタインだ。

ここに来るまでに立っていた看板には『バレンタインデー特別価格!』やら『チョコの様に甘〜い夜を』という酷くお寒い文字がミミズの様に羅列されていた。



……まあ、それを酷くお寒いと揶揄してしまう事からお分かり頂ける通り、私にはフランス辺りの高級チョコを渡すような相手は端から居ないわけだ。

ああ……さっき路上でキスをしていたカップルの頭を一升ビンで殴りたい……。それはもうドクロちゃんみたいにエスカリボルグで、ガツンと。



「先輩……、そんな顔して飲むとせっかくのお酒が美味しくなくなりますよ?」



一軒目の大衆居酒屋からそんな事を言われている気がするが、そんな言葉は全く耳に引っかからない。



「うるさい。じゃあ何か芸でもしてみせろ。私を笑わせる事が出来たら甘〜い口づけをくれてやる。もちろんディープだぞ?」

「その時は損害賠償を請求し」

ドガッ!

「に゛ゃっ!!」



手刀一発to脊椎。



「私の唇より神聖な物などない。寧ろ唇を当てられた方が金を払うべきだ」

「だからって殴らなくても……」

「殴ってるんじゃない。身長を縮めてるんだ」

「尚悪いわ!」





【続きを閉じる】



2:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:21:20.37ID:IOd+VqaJ0

さっきから的確にツッコミを入れて来るこのやかましいアホ猫のような奴の名は中野梓。

私の高校時代の後輩で、軽音部内の同じバンドにギターで所属していた。

専門学校から地方音楽事務所を経て、現在は東京を拠点に活動しているプロのギタリストというのがこいつの職業である。

高校時代はもう少しお淑やかで物腰も柔らかいいい子だったのだが、仕事の影響と東京での暮らしが原因でやや愉快すぎる奴になってしまった。普段何も予定無い時は基本的に我が秋山宅に居て、飼い猫的存在として私が面倒を見たりしている。



「お前が居ない間ボケる奴が身近に居なかったからツッコミ足りてないんだ。だから今日はガンガン行くぞ」

「うう……これ以上小さくなったら本当に損害賠償請求しますからね……」



そう、梓は先週まで行われていたメジャーアーティストの全国ツアーにサポートメンバーとして参加していた為今日が久々の再会&飲み会となったのだ。確か最後に会った時がツアー中盤の武道館公演の時だったから……約一ヶ月振りか。

今日は本来なら家で一緒に祝い酒のつもりだったのだが、生憎私に急な仕事が入ってしまったのでもうどうせならと梓を職場まで呼び寄せ、そこから直接馴染みのこの店に飲みに来たのだ。

……まあそのおかげで見たくも無い文字や光景も多々見せつけられてしまった訳だが。



「まあまあ澪、そうカッカしなさんなって。カルシウム摂ってるか?煮干しが良いよ、煮干しが」



梓が注文したモスコミュールを作る様子も無く、カウンターの中のそいつは皿に盛られたチョコを手に取る。



「……そのチョコ、お前にあげた訳じゃないんだぞ?」

「ん〜、だって店に貰ったものなんだから私にだって食べる権利はあるっしょ?一応従業員だし」



そんな事を言って三個目のブロックチョコを口に運ぶこいつの名前は田井中律。

私の幼馴染で、梓や私と同じく軽音部に所属していた。パートはドラム。走り気味のドラマーだった。

一応部長だったが怠慢な態度でその役職に臨んでいた為、あまり相応しいとは言えなかったかもしれない。

現在は地元を離れて東京の小さな会社に勤めている。確か……子供向け玩具の製造会社だったか?

まあそんな一般社会人のこいつが何故カウンターの中に居るかといえば、週末限定でこの店の手伝いをしているからである。傍から見れば酒を作る以外は遊んでいる風にしか見えないのだが、律目的で店に来る客も居るというから侮れない。















3:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:26:25.10ID:IOd+VqaJ0

「そういえば律先輩、最近痩せました?」



律のウエスト辺りを眺め、梓が問う。



「おお?何だ何だ?褒めてんのか?」

「いえ、何だか洋服のサイズがダウンして見えたんで」



……そうか?



「偉いっ!褒めて遣わすぞ梓!お前は褒め上手だ!」



そう言ってようやくトングとグラスを手にする律。手の動きの素早さは相変わらずだ。

宙を舞った氷がまるで呼ばれるようによく冷えたグラスの中へ吸い込まれていく。まあかっこいいと言ってやらんでもない見応えのあるパフォーマンスだな。流石は元走り気味のドラマー。手は動く。



「でも痩せた訳じゃないんだよ。いつも店用に着てる服が乾かなくてさ、今日はワンサイズ下のやつを引っ張り出してきたんだ。だから痩せたわけじゃない。まあ半分正解だな」



そう言ってグラスにメジャーカップで計ったウォッカを注ぐ律。表情は苦笑いと言ったところか。



「へぇ〜、可愛いですねそれ」

「何と言っても私のお勧めブランドだからな」

「セール品のまとめ買いだろうが」

「げっ!バ、バラすなよ澪〜!」



手は止めず声と顔だけで入れられるその抗議を軽く無視し、カウンター後方にあるアラビア文字の洒落た壁掛け時計に目をやる。















4:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:31:14.32ID:IOd+VqaJ0

「遅いな……」



約束の時間からもう大分時間が経つ。彼女に限ってそんなに大きなヘマはしていないと思うが……ひょっとして何か問題でもあったか?

そんな心配は無用と思いつつも随分と珍しい遅刻に何かを感じ、焼酎グラスの隣に放置していた携帯電話を手に取った瞬間だった。



―――キイイイイイィィ



出入り口のドアから発せられる軋音。大方潤滑油でも切れたのだろう。何だかお化け屋敷みたいだな。



「すいません!遅くなりました〜!」



そう言ってバタバタと店内に入って来る白いコートの女性。外が余程寒かったのだろう。鼻も頬も真っ赤で、身も竦めている。

「いらっしゃいませ『RISE』へようこそ〜!寒かったみたいだね?熱燗が良いかい?それともホットカクテル?」



律がいつも通りの接客用語を笑顔で叫び、さっとカウンターを出てコートを預かる。ちなみに『RISE』とはこの店の名前。店舗の入れ替わりが激しいこの界隈では古株的な立ち位置のバーである。



「ん〜と……何も食べてないんでサンドイッチとビールを下さい」



ありゃー!と律。



「さっきのでサンドイッチ切れちったんだよね〜……」



その最後を齧ったのは、他ならぬ私と梓である。



「あ、でも代わりにいい物があるよ!忍ちゃ〜ん!」



その律の呼び声に応え、レスラー体型の強面お兄さんが駆け寄ってくる。















5:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:36:46.50ID:IOd+VqaJ0

「な〜に〜りっちゃん?あたしになんか用ぉ〜?」



……お聞き頂いた通り、彼は世間一般で言うところのゲイさんである。お姉ぇ言葉歴二十数年のつわものだ。



「サンドイッチ切れちゃってさ、代わりに忍ちゃんのアレ出してあげたいんだけど、いいかな?」

「あらぁ〜、あんな物でよければいくらでも出して頂戴!でもボったくっちゃダメよ?」

「わ〜ってるって!サンキュ!」



そして素早く去ろうとするその大きな背中を梓がぽんぽんと叩く。



「あら!よく見れば子猫ちゃんに澪ちゃんじゃないの!いつの間に来てたの?」

「一時間くらい前だよ。忍さんあっちで盛り上がってたからさ」

「呼んでくれれば顔見せたのにぃ〜!あ、子猫ちゃんこの前はありがとね!すっごく楽しかったわ!」

「いえいえ、こう見えても顔広いんで」



確か忍さんがどうしても行きたがっていた外国人アーティストの来日公演のチケットを梓が取ってあげたんだっけか。プラチナチケットだっただけに一般ではまず手に入らなかった所を、梓が事務所に頼んで特別に関係者席を取ってもらったのだとか。



「でもびっくりしたわ!まさかサインまで貰えるなんて思ってなかったから卒倒しかけたわよ!」



その外国人アーティストがゲイであるという事を、私は知っている。



「その巨体を運べる人なんていないから倒れちゃだめですよ?」

「あぁ〜ん!!今日一発目の言葉責めえええええぇえぇぇぇ!!」



見るも恐ろしい阿鼻叫喚地獄絵図を他所に、私は今しがた店に入って来たばかりの連れを隣に座らせる。律も素早くビールと突き出し代わりの乾き菓子を出し、店の奥へと引っ込んで行った















7:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:43:48.29ID:IOd+VqaJ0

「うぃ、お疲れ」

「お疲れ様です」



忍さんと一緒に暴れ回っているアホ猫をさっと無視し、私は彼女と一週間ぶりの乾杯をした。

こんな寒い日でも一杯目がビールとは何だかよく分かっていると感心してしまう。実は『とりあえずビール』は科学的見解からも胃に優しいのだ。酒飲みの豆知識である。



「随分掛かったみたいだね。何か問題でもあった?」

「いえ、道が混んでただけです。仕事は予定より早く終わらせました」



あの量の報告書をこの短時間で上げてしまうとは……流石は元関西支社セールス部門のぶっちぎりトップ。やはり本社に来てもらって正解だった。他の社員もお先と言われた時にはさぞかし真っ青になっただろうな。



「よし、御苦労様。流石は私の右腕だね。頼りになるよ」

「澪さんに比べたらまだまだですよ。秋山新主任!」」

「おっ、言うねぇ言うねぇ〜!」



美人で仕事が出来てよいしょ上手なこの娘の名前は平沢憂。

梓と同じく高校の後輩だが、こちらは軽音部には所属していなかった。正確には軽音部のメンバーの妹というのが彼女との間柄である。

私が高校を卒業してからは全く連絡を取っていなかったのだが、去年の正月に帰郷した際スーパーの駐車場で偶然再会し、色々と話し込んでいる内に私が勤めているK社という会社の関西支社で働いているという事が判明したのだった。



その時はそれで終わったのだが、それから数カ月が経ったある日に私の所属する本社営業課で緊急の欠員が発生。

どうしようかと頭を抱えたが「そういえば……」と彼女の事を思い出し、即座に本社への転勤を打診したのだ。

それを快く受諾してくれ、彼女は現在K社東京本社営業課の私の班で働いている。

先にも述べた通り自他公認の私の右腕的存在で、常にサポートや裏の作業に手を回してくれているスーパー……いや、ハイパーウーマンだ。

今日とてかなりの量の残業を頼んでいたのだが、きちんと約束の時間までに終わらせて平然と飲み来るとは最早驚嘆の域だ。

まああの鬼畜ばりの超速タイピングと指が見えないと揶揄されるテンキー捌きを持ってすれば至極当然の様に感じるからまた怖い。

恐らくだが、タイピング全国ランキングに余裕で載るぞ、この娘。















8:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:48:39.48ID:IOd+VqaJ0

「やっほ〜憂!久し振り〜!」

「あっ、梓ちゃん!久し振り〜!」



そう言って私の目の前でカツンとぶつかり合う二つのグラス。この二人も約二ヶ月振りの再会となるはずだ。



「鬼の秋山からしごかれてたんだって?たいへ」

ドゴッ!!

「んごぉっ!!」



裏拳一発to鳩尾。



「人をどっかの野球部の名物監督みたいに言うな」

「そ……そんな……つもりは…………」



そう言ってカウンターの上に崩れ落ちるアホ猫。だらしない、



「ジム通いが聞いて呆れる耐久力だな」

「わ、私が通ってるのはスポーツジムですよ?」

「なんだ、ボクシングじゃなかったのか」

「なんで今から矢吹ジョーを目指さないといけないんですか……。突き指でもしたら仕事に差し支えが出ます」

「突く程指が長いか?そんな身長で一丁前に身体を語るな」

「に゛ゃっ!?」



その言葉に反応して犬歯剥き出しで食いつこうとするアホ猫を指一本で制していると、奥に引っ込んでいた律が何やら湯気を上げる容器を持って戻って来た。

楕円形でサンオレンジカラーの洒落た器。この店のグラス食器類は全て店主のこだわりで揃えられている。

インテリ好きなだけあってその数は日毎どんどん増えて行っているらしく、律曰く全てに目を通すだけでも楽しいらしい。















9:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:53:25.12ID:IOd+VqaJ0

「憂ちゃ〜ん、うちの店自慢の忍シチューだよ!」

「げっ!!」

「に゛ゃっ!!」



思わず梓と揃って飛び上がってしまった。

今憂ちゃんの目の前に置かれたのは忍さん特製の本格ビーフシチュー。略して忍シチューだ。素材からこだわって完成に三日を費やすという採算度外視のまさしく逸品。

この店で人気ぶっちぎりナンバーワンを誇るメニューなのだが、あくまでシェフの気まぐれメニュー的な存在なのでいつもあるとは限らない。

だがまさかそれがあったなんて……。不覚だった……。



「うわ〜!忍さんのシチュー久しぶりです!」

「昨日余った分を開店前にスタッフみんなで食べたんだけど、それだけギリギリ余ってたんだ。何もお腹に入れないで飲みのはよくないからね。まして……」



いつの間にか律の背後に立っていたその人物がこちらを一瞥してニヤリと一言。



「鋼の肝臓を持つ澪ちゃんが相手だしね!」



そう言って付け合わせのサラダとパンの乗った皿を音も無く置くこの人物はこの店の店主兼経営者、マスターである。



「マスター……何だか貶されてる気がしてならないんですけど……」

「ん?褒め言葉だよ褒め言葉!当店の在庫キラーナンバーワン!あきいいいいぃぃぃやまああああぁあぁぁぁぁ!!みいいいいいおおおおおおおおおぉぉぉ!!!」



イェイ!と言って奥に引っ込んでいくマスター。今日は裏で売り上げ計算をするって言ってたっけか?

何にせよ相変わらず飄々とした人だ。遠回しに高級焼酎ばかり飲み過ぎだと言われている気がしたが、あの顔で言われると反省はしないが憎めない。

まあマスターはいつもの事だからいいとして、今は隣のドアホを黙らせるとしよう。















10:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)18:58:03.47ID:IOd+VqaJ0

「おい、息が荒い、涎が垂れてる、髪が私に当たってる。早くそこをどけ」



私の視界を覆うようにして憂ちゃんに出された忍シチューを凝視する梓。



「はよどかんかい」

「に゛ゃっ!?」



言っても聞かないようなので羨望に塗れた表情を浮かべる顔面にベースで鍛えた握力を駆使したアイアンクローを掛けた。



「ぬああああぅ……!い、痛い!痛いです!」



なんとか席に押し戻すが、それでも室内犬が主人にじゃれる様に舌を出すのは変わらない。



「ちょっとは落ち付けよ……。動物じゃないんだから」

「先輩だってさっき奇声上げてたじゃないですか!」



その言葉に思わずうろたえる。反論しなければ。



「あれは……ちょっと動揺しただけだ」

「ちょっと?あれがちょっとですか!?いつも色気より食い気のくせに!」

「何だと!?それを言ったらお前だって同じだろうが!」

「同じシャツを三年も着る人に言われたくありません!」

「私のは一枚何万円もする丈夫な奴なんだよ!お前のジーンズなんか所々破れてるじゃないか!」

「ビンテージですよビンテージ!めちゃくちゃ高かったんですから!これでムスタングが二本買えるんですよ!」

「そんな薄汚れた虫喰いジーンスに大金叩くなんてアホらしい!」

「先輩がいつも持ってるブランドバッグだってパチもんかもしれないじゃないですか!」

「何ぃ!」

「何ですか!」















11:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:03:16.34ID:IOd+VqaJ0

「うわぁ〜美味しそう!いただきま〜す!」

「ぞうぞ!!」

「召し上がれ!!」



そう言ってカウンターを陣取る我々は三人同時にグラスを空にする。

私は計六杯目の米焼酎、梓は計四杯目のジンバック、憂ちゃんは二杯目のビールをそれぞれカウンターの中に要求し、律はそれに苦笑いで応えた。



「何だかいいトリオになったよなお前ら。高校時代より随分楽しそうだ」



ささっとビールを注ぎながらそんな事を言う律。まあ確かにそれはそうなのだが……。



「でも、三人とも嫁入りは遅そうだな」



ほ〜ら、やっぱり来た。相も変わらず一言余計な奴だな。まあ自分でも婚期は遅いと思っているので言い返せないのが癪なのだが……。



「でもさ、嫁入りと言えばもう来週なんだよな」



そう言って憂ちゃんのコースターの上にグラスビールを置く律。



「……来週ですね」



律の言葉に頷いて梓は横を見る。



「来週……だな」



私もそれに倣って横を見る。目線の集まる先に居る彼女は出されたビールをクイッと三分の一程飲み干し、二口サイズ程の肉を頬張る為に用意されたフォークを手にした。



「……そうですね」















12:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:09:39.06ID:IOd+VqaJ0

その口調がややアンニュイな物に聞こえたのは、私達には計り知れない様々な物が彼女の中で渦巻いているからなのだろう。その胸の中を占めるのは感慨深さか、はたまた別の何かか。……正直、私には知る由も無い境地だ。



「私実家に帰るとだらしなくなるからなぁ〜……。朝ちゃんと起きれるかな?」

「起きなかったら叩き起すまでです。往復ビンタとパイルドライバーのどっちがいいですか?」

「まぁ〜!この娘ったらなんて口をきくの!?保護者を出しなさい!」

「この人です」



そう言ってこちらに向けられた人差し指をすかさず掴み、テレビでやっていた合気の真似をしてくりっと捻る。



「だああああああああああああああ!!!ギブギブギブギブギブ!!!!」



必死にカウンターでタップしようとする手をすかさず律が掴み、にんまりした顔でアホ猫に迫る。



「ごめんなさいは?お嬢ちゃん」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいいいいいぃぃ!!!」



どうやら本気で反省しているようだ。誠心誠意がこもったその謝罪をしかと聞き届け、私と律は同時に手を離す。その直後すぐさま半泣きの顔で人差し指にふーふー息を吹きかける梓。子供か。



「うう……私の職業がギタリストと知ってこんな事を……」



至極真っ当な抗議を述べるお子様ギタリストに向かい、ざまあみろ〜!と年上の風上にも置けないような台詞を飛ばす律。やんちゃでお子様な部分もまだまだ残ってはいるようだ。



「まあ来週まで保てばいいさ」

「その後は?」

「知らない」

「律先輩の鬼ぃ〜!」



やんややんやと繰り広げるいつもの応酬劇。それを左耳が騒がしく感じつつ、チラと視線を逆に送ってみる。

何だかよく分からない表情でとろとろの肉を頬張るその顔。普段はなかなか見せる事のない薄曇りの表情だ。

その顔を作らせる原因は分かっているのに何も言ってあげられない私は上司失格なのだろうか?……いや、プライベートな事にずけずけと土足で侵入する事の方がきっとダメなのだろう。















13:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:15:21.01ID:IOd+VqaJ0

だから私は何も聞かない。彼女が自分から言いたくなるまでは絶対に。言いたく無ければそれでいい。

……まあ、黙って見守るさ。上司として、先輩としてね。



二月、雪の歌舞伎町。いつもの様に集まっていつものように飲んでいる私達。

それこそいつもと何も変わらない光景なのだが、何だかいつもと少しだけ空気が違う。

きっと……皆そわそわしているんじゃないかな。かく言う私も何だか落ち着かない。

そんな各々の抱く感情が渦巻くバーのカウンター。

ふと自分の人生なんかを考えてしまったり、でも分からなかったりの応酬劇を酒で加速させる私は……どうなんだろうね?



翌週に控えた一大イベント。今は只々思いを馳せる。

私達の親友、そして憂ちゃんの姉である平沢唯の挙式まで……あと一週間。

私は溜息を一つ吐き、律といがみ合っているアホ猫の皿から山葵醤油煎餅を根こそぎ奪い、その一つを品も無くボリボリと貪るのだった。















14:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:20:55.60ID:IOd+VqaJ0

相変わらず代わり映えのしない光景だな……と思ってしまう。

東京の日毎変わり行く景色に慣れてしまったのだろうか?それともほんの一月前にこの地の土を踏んでいたからだろうか?

……どちらにしろ変わりない。自分の中でこの街はもうホームタウンでは無くなっているのだ。それに対して寂しいとかそんな感情が全く湧いてこない私は冷たい人間なのだろうか?

……ダメだ、それも分からない。



地元を離れてもうすぐ八年。泣く泣くこの街から旅立った高校卒業直後の私も先月で二十五歳になった。

随分と色々あった気がするが、只々単調な日々の繰り返しであったのかも知れない。

現にこうして振り返ってみれば八年という日々が異様に短く感じられているのだ。感覚的には高校時代の三年間よりも数倍早かったと思う。

いつの間にか社会人として世の中の歯車となり、大人になるに連れ朧気ながらに描き始めていた未来のビジョンを遵守している自分に呆れるばかりだ。……まったく、嫌になるな。



「何だかテンション低いですね?ひょっとして飛行機酔いでもしました?」



そう訊いて来るのは毎度頑なに空港から地元の街までの運転を拒むアホ猫だ。

今回など私が鍵を渡された数秒後に助手席でニコニコと缶コーヒーを啜っていたから驚いた。

毎度毎度輪をかけて秋山澪調べのふてぶてしさワールドレコードを更新しているが、次回の帰省時にこれを更新されようものならいくら温厚な私とてもう黙っていないだろう。その際には鼻でピーナッツでも食べてもらおうか。鼻でピーナッツでも。



「別に。何でもないさ」



軽く受け流す。



「へぇ……そうですか」



そんな事を言いつつ、いつの間にか買っていたホワイトのブロックチョコを私の口に押し込む梓。



「夜だから血糖値が下がってるんですよ。脳を活性化させて下さい。眠気覚ましにもなりますよ?」

「だったらミントガムの方がいいんじゃないか?」

「そんな気の利いた物は持ってません。コンビニで栄養ドリンクでも買って下さい」



相変わらずお厳しい事だ。いつもあとワンプッシュが惜しいな、こいつは。















15:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:26:20.36ID:IOd+VqaJ0

「へいへい。ありがたき御忠告を本当にありがとうございます梓大明神」

「む、分かればよろしい」



普段ならここでモンゴリアンチョップでもお見舞いしてやる所だが、今はそんな気力さえ湧かない。

やれやれ……めでたい事の前日だというのに、何でこうもテンションが上がらないんだろうね……。



「あ〜眠い……って、ありゃ?もう到着ですか」



先程から時折目を擦っていた梓が停車を合図にシートを起こす。相変わらずマイペースな奴だ。



「何だか回を重ねるごとに到着するスピードが上がってますね」



それをお褒めの言葉を受け取り、頑なに口を閉じるトランクを解錠してやる。



「まあ毎度毎度運転してればこうなるさ」



そんな事をかっこよく言ってポケットの中の携帯を取り出す。

サブディスプレイが表記するアラビア文字が示す時刻は二十一時五十八分。約束まではあと三十分もある。一度車を置いて出ても十分間に合うだろう。



「じゃ、明日はよろしくお願いしますね」



後部座席に寝転がっている黒いケースを回収し、トランクの中のバッグを肩に掛けた梓が運転席側に回り込んできてそう言った。



「ああ、寝坊するなよ?」

「当たり前です!私のドレス姿を見て先輩が卒倒しなけれ」



そこまで聞いて軽のレンタカーを急発進させる私。生憎だが戯言に付き合う余裕は持ち合わせていない。

さらばだアホ猫。絶対に遅刻なんてしてくれるなよ?お姉さんとの約束だからな?















16:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:30:19.67ID:IOd+VqaJ0

家の前から乗った黒タクシーを降りた私は、飛び込んできた光景に思わず頭を掻いた。

まだ約束の十分前だというのに既に二人とも到着しているというのが本当に素晴らしい。今しがた別れたばかりのアホ猫ギタリストに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものだ。



「私が最後か。これは失礼したな」



偉大な二人を一瞥し、鼻を鳴らして白い息を吐く。



「私も今来たところ。タッチの差だったわね」

「寒い〜……早く入ろうぜ〜……」



という事はまさかのまさかでこいつが一番乗りか。それはそれは悪い事をした。



「あれ?梓ちゃんは?」

「おさらいがしたいから来れないんだとさ。珍しく本気だよ」

「何だよプロのくせに……。何回武道館で演ってんだよ……」

「プロだから、だろ?お前だって何杯作っててもカクテルの分量が分からなくなる時くらいあるだろ。それを極力潰すのがプロだ」

「へいへい……」



淡いレモン色のマフラーに顔を埋め、その中に温かい息を吐きだす律。震える手を見れば分かるが、もう寒くて堪らないようだ。

朝の便でこちらへ戻って来たらしいが、昼間に送って来た写メールと同じ格好をしている所を見ると街で豪遊して直接ここに来たと見える。



「まあ何はともあれさっさと入ろうぜ?お湯割りが飲みたい」

「そうね。私も早く焼き鳥が食べたいわ」



そう言ってモナリザもびっくりの微笑みを見せるこの美女の名前は琴吹紬。

高校時代の同級生で、律や私と同じく軽音部に所属していた。パートはキーボード。

高校卒業後は紆余曲折あって、現在は地元でジュエリーショップのオーナーなんかを務めている。支店が西日本に四店舗だったか?業界内でも噂の新鋭企業なのだと雑誌に載っていた。

今着ているコートも随分と高そうだな。恐らく私とは一生縁が無い様なメーカーの物なのだろう。















18:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:35:27.50ID:IOd+VqaJ0

「じゃ、入ろうか」



私が先陣を切ってドアの中へと突入を図る。今年の正月にも来たから約一ヶ月振りか。

うん……この机と言い箸箱と言い店員と言い、やはり懐かしさも新鮮味も全く無い光景だな。……まあそれが当たり前なんだけどね。





「よく考えたらムギと会うのは去年の五月以来か」



乾杯を終え、突き出しのチリビーンズを口に放りながら私は言う。

ちなみに去年の五月とは梓が初めて武道館に立った記念のライブを見る為に仲間全員が東京に集まった時の事を指す。

あのライブは本当に楽しくて感動的だった。今思い出しても目頭が熱くなる。



「ええ、今年は支店の開店準備で忙しかったから。せっかく皆で集まる予定だったのに約束破っちゃってごめんね」



そう謝るムギの左手を見れば早くも中ジョッキが空になる寸前になっていた。相変わらずアルコールの申し子だな。



「気にするなよ。私達みたいに決まった休日が取れる訳じゃないんだからさ」

「そうそう。気楽なOL稼業の私達と一企業を肩に担う社長を一緒にしちゃ〜お天道様が許さねえってもんよ」



江戸っ子のチャラけた言い回しでムギを笑わせる律。

それにしても本当に大したものだ。二十五歳でもう立派な企業家じゃないか。どことなく社長の風格もある気がするし、それにどんどん綺麗になっている気もするな。

その内どこかのワイドショーで取り上げられそうだ。『噂の企業の女社長』あたりで特集が組まれたらブルーレイで録画しておこう。



「でもこうして二人と会えたのは嬉しいわ。ひょっとしたら来年の正月まで会えないかもって思ってたから」

「ま、そこは唯に感謝しないといけないな。私もムギに会えてよかったよ」

「そんなこと言っちゃって〜!本当は唯のウエディングドレス姿見たら泣いて悔しがるくせに澪ちゃんは〜!」



その稚拙なからかいに思わず回答が詰まる。慌ててビールを口にして誤魔化そうとしたが、長年の付き合いがあるおデコさんには通じなかった。















19:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:40:30.19ID:IOd+VqaJ0

「あ、あれ?ひょっとして……図星?」

「ち、ちが……う……」



ダメだ。今のは我ながら下手な弁解だったと思う。



「ま、まあまあ。澪ちゃんならすぐにいい彼氏が出来るわよ!ね、りっちゃん!」

「そ、そうだぞ澪!澪は顔もスタイルもいいんだからすぐにみっちゃんみたいに……」



グサリと遠慮なしに貫かれる私のフラジャイルマインド。言われるまで気付かなかったが、私の心は思っていたよりもずっと深刻なダメージを負っていたようだ。



「あっ……ご、ごめん!それが原因だったのか……」

「……いや……いい……」



私と律を交互に見るムギ。まあ二人の間でしか成立しない話題でテーブルの上の空気を占拠するのは良くないな。この際だから洗いざらい吐いてしまおうか。



「ああ……えっと、みっちゃんって言うのは私が入社してからずっとよくしてくれてる上司で、律の店の常連なんだ。休みの前の日なんかずっと一緒に飲みに行ってたんだよ」



そこでビールを二啜り。中ジョッキ残り三分の一。



「よく愚痴を聞いてもらったりしてさ、どっちかが嫌な事があったら一緒に飲んでハシゴして朝まで騒いでってのがずっと続いてたんだよ。口癖は「彼氏なんていらない!」で、二言目には「どっかにいい男は居ないのか!」ってよく叫んでた」



それがさ……と続け、チリビーンズを口に放ってビールで流す。中ジョッキ残り十分の一。



「今年の頭にいきなり「結婚します!」だなんて言い出したんだよ。おまけに三月には寿退社だってさ」



あら……と眉を八の字に曲げつつ、ムギはグラスの中を空にしてそのまま注文ボタンを押した。私もそれに倣ってグラスを空ける。まだ料理が一品も来ていないというのに、二人ともとんだ酒欲だ。















20:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:45:57.35ID:IOd+VqaJ0

「私、何にも聞かされてなかったからショックでさ……。それからその人が一気に縁遠く感じちゃって、最近は全然飲みにも行かなくなっちゃったんだよ。向こうは向こうで仕事の引き継ぎとか忙しいし、私も婚約指輪見たら誘いにくくて……」

「そう……なんだか複雑ね。祝ってあげなきゃいけないのは分かってるけど……って感じ?」

「ん……そんなとこ」



そこで登場した店員にムギは慣れた口調で焼酎のセットを注文し、私はもう少しビールで胃を慣らそうと中ジョッキのおかわりを注文した。

それを繰り返し確認を取っていそいそと去って行く若い店員の薬指にはめられたリングがやたらと目につく。煌々と光を放つそれの存在意義がこんなに疎ましく思えた事は無い。



「なあ、ムギはどうなんだ?恋人とか……結婚とか……」



ん〜……と呻りながら焼き鳥の盛り合わせ用に置かれたキャベツに端を伸ばすムギ。そんなにタレが美味しいのだろうか?目一杯浸して口に運んでいる。



「私はあんまり興味ないかな……」



あっけらかんと言い放つ。口調は軽い。



「一人で生きて行くのには何かしら不便な世の中だけど、家庭を持つと何かしら犠牲になる物も出て来るだろうし。私は仕事にウエイト置いてるからそういうのはいいかな。子供も出来ると大変そうだし」

「おっとちょい待ち」



その言葉に反応したのは律だ。短大卒で保育士の免許も持っている子供大好き人間。実際に保育園で働いていた事もあり、今はその経験を生かして玩具の製造会社に勤めているのだ。やはり言いたい事はあるだろう。



「子供もいいもんだぞ。他所の生意気なガキんちょだったらそりゃ〜なかなか馴染めないだろうけど、でもやっぱり可愛いもんさ。接してると分かるよ」



熱弁気味に語る律。だが、それにも「ん〜……」と呻りを上げるだけのムギ。やはりそこは人の好き好きなのだろう。正直好みの範疇を出ない押し問答だ。

無理に子供を産まなきゃいけない時代でも無いし、世の中は少しずつ女性が一人で生きていける様になってきている。顕著な例として少子化や晩婚化だって進んできているし、不景気だって影響しているだろう。

そこにスポットを当てると自動的に結婚や子供、それ以前に男女交際というものの意味すら深く深く考えさせられる。















21:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:50:57.07ID:IOd+VqaJ0

「何で人って恋愛するように生まれたんだろうな……」

「おや、深い事をおっしゃいますね澪さん?その真意とは?」



うん……と深く考えてもいない持論を展開しようとしたその時だった。



「お待たせいたしました〜。生ビールの中と『巡風の寶』のボトルセットですね」



先程の若い店員が話を遮るように割って入って来た。別に悪意は無いのだろうが、些かタイミングが悪かったのは否めないな。

テキパキと私のビールやムギの焼酎セットを並べ、「ごゆっくりどうぞ」なんて至極常套的な言葉と共に一礼をする店員。大きなトレイを持ったその左手には相変わらずキラリと輝くリングが居座っている。



「で、どんな話だったっけ?澪先生」



仕切り直すようにニヤニヤと訊ねて来る律。だがその顔に些かの悪戯心を感じた私は「やっぱりいい」と小さく答え、二杯目のビールをくいっと煽ったのだった。





その後、明日の前祝いと称して催されたこの集いは結局二時間程で解散。

だらだらと高校時代の思い出話なんかを話していたのだが、ムギのボトルが空になったのと注文した料理を全て食べきったのが重なり、ちょうどいいかという事で早めの解散に踏み切った。どうせ十数時間後にはまた会うんだ。酒も飲む事になる。

顔の赤い律と水でも飲んでいたかのような顔をしているムギが乗った二台のタクシーを送り、私は少し酔い醒ましの散歩をする事にした。家まで約三キロ。歩いて帰ってしまってもいいかもしれない。

今日は……星が綺麗だ。





たまたま目に着いた河川敷の小さなベンチ。

この街に居た時にはまだ設置されていなかったというのに、一体いつの間に住民が搾取された血税が投入されたのだろうか?……正直誰も座らないぞこんなベンチ。

私が今座っているのはたまたまであって、日頃からこんな何も無い川を眺める暇な市民が居るものか。……と、そんな悠長な酔っぱらい思想を密かに展開していた時、膝に乗せていたバッグが微かに震えたのが分かった。

すぐさま中を漁り、スプレーに当たって傍迷惑な軽低音を撒き散らす携帯を取り出す。



「……何だこんな時間に」















22:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)19:56:44.71ID:IOd+VqaJ0

サブディスプレイに表示された文字は一つ。それは、恐らく統計を取ればぶっちぎり一番で私の携帯の着信履歴を埋めているであろう人物の名前だった。

別に無視しても良かったのだが、まあ仕方なくボタンを押し込んで通話を開始させる。



「切るぞ」

『わ!ちょ、ちょっと待って下さいってば!』



どうせ大した用事でも無かろうに。電話代の無駄だ。



『あの……今何処にいます?』



何だってんだ一体……。



「河川敷だ。酔い醒ましの散歩中だよ」

『それってバス停近くのですか?』

「そうだ」

『ああ、よかった!じゃあお願いがあるんですけど、今から家に来てもらえませんか?』



……はぁ?



「何が「じゃあ」だよ!これでも結構飲んだんだぞ?帰って寝るって……」

『そこを何とか!明日の唯先輩の式が台無しにならないかが先輩の双肩に掛かってるんです!』



……ん?



「どういう事だよ?」



訝しげに訊ねるが、正直一気に酔いなど醒めてしまっていた。



『あの……それが……』















23:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:01:54.18ID:IOd+VqaJ0

直後、受話スピーカーの向こうから聞こえた言葉が嘘では無いと判断した私は、即座にベンチから立ち上がって歩き始めた。

これが本当ならあのアホ猫一匹に任せてはおけない。下手をすれば本当に式がぶち壊しになってしまう。……それだけは絶対に防がなければならない。

親友の人生で一度の晴れ舞台を壊させてなるものか。

そう心の中で反芻した私は、買ったばかりのヒールの踵を折る覚悟で走り出した。





「ああ、すいません先輩……」



申し訳なさそうに頭を下げる梓。夜中なので声は押さえ目だ。



「いいって、それより中に」



コクリと頷き音が鳴らないように戸を引いて私を招き入れるあたり、恐らく両親は既に就寝中なのだろう。仕方なく私もこそこそとヒールを脱ぎ、抜き足差し足でリビングへと向かう。

確かオーディオやギターの音が漏れないようにと防音性を重視した設計になっていると言ったな。そこまで行けば大丈夫か。

そう思っていると他の木製扉とは明らかに違い、やけに重厚に感じる扉の前に梓が立った。



「開けますね」



重そうな扉についているのはよくスタジオの出入口のドアについている専門的なノブだ。



「えらく本格的なんだな……」



そのやや過剰気味な装飾の入った銀のドアノブをガチッと下げて扉を引く梓。これを毎度繰り返していたら大変そうだ。とても老後の事まで考えて設計したとは思えない。



「どうぞ」



促されるまま流されるまま、そのドアの中へと歩を進める。割と覚悟はしていたつもりなのだが、私はその光景を見てやはり愕然としてしまった。



「おいおい……」













25:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:08:20.11ID:IOd+VqaJ0

冗談だろ……なんて思ってしまうが、どうにもこうにも映る全てがリアル過ぎて溜息すら出ない。何にせよ面倒臭い事になりそうだ。……ついてない、不幸だ。



「あっれぇ〜〜?澪しゃんじゃないですかぁ〜」



視線の先に居た彼女が突っ伏していたガラスのローテーブルから身体を起こし、とろりとした目でこちらに手を振る。

テーブルの上には山積みのカクテル缶。

それは全てがロング缶で、近所のスーパーに陳列されたものを丸ごと持ってきたように感じる。おまけに二十〜三十本程もあるそれらは全てプルトップ押し込み済みときている。

恐らく中身は全て空なのだろう。彼女の律儀な性格とでろんでろんなあの顔を見れば一瞬で分かる。

これは断言できるが、あんな酔い方をした人間はろくな行動を取らない。そしてまともな言動は絶対によこさない。絶対に、だ。



「梓」

「……はい」



私に続いてリビングに入り込み、再びドアノブを元に戻す梓。その返答にはいつものチャラけ具合が感じられない。

恐らくだが彼女を押さえるので精一杯だったのだろう。最早疲労困憊といった具合だ。きっと今ソファーに寝転がれば一瞬で夢の世界へ旅立ってしまうんだろうな。

だが、その前にこの質問にだけは答えてもらおう。



「お前……何本飲んだ?」



私の発言と同時に一瞬の間が訪れ、喉を鳴らした音の後その言葉は続いた。



「……ゼロです」



何処となく申し訳なさそうに俯く梓。責任でも感じているのだろうか?……いや、きっとそうなんだろうな。



「そうか……」



こうなったら手段は一つだ。タイムリミットは朝の九時。徹夜覚悟でやるしかない。















26:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:12:08.99ID:IOd+VqaJ0

「梓、パソコンの電源入れろ」

「パソコン……ですか?」



きょとんとして首を傾げる小さなギタリスト。



「ああ、今はお前のラッキーガールっぷりを信じるしかないみたいだからな」



普段から豪語してる中野梓=天女説だって信じてやるさ。だから神懸かり的な力を使っていい奴を引き当てろよ。



「ネットで『酔い』スペース『醒ます』、それで数が多ければスペース『緊急』を加えて検索だ」



えらく初歩的でどうしようもない手段だが、今は文明の力に掛けよう。



「時間が無い。出来る限り早く多く調べてくれ。一秒も惜しい」

「わ……分かりました」



そう言って部屋の隅に置いてある一世代前の物と見えるデスクトップ型パソコンに駆け寄り、電源ボタンをオンに入れる梓。OSの立ち上げまでにはまだ時間が掛かるだろう。仕方が無い事だが、本当に一秒でも惜しい状況だ。

できるだけハードディスクが重くなっていない事を祈ろう。それこそこのパソコンだと楽譜なんかのデータが圧縮されずに保存されてありそうで怖いな。



「さて……」



パソコンを梓に任せ、私はにへら笑いでテーブルの上に積み上がった缶を一つ一つ持ち上げている彼女に近寄る。

恐らく何を言っても無駄だし、何をしても朝には覚えていないだろう。

……だが、一応は務めを果たさねばなるまい。知ってしまったからには見て見ぬふりが出来ない性分だ。

それに、この種火が散拡してしまったら一生取り返しのつかない事態にもなりかねない。火は消す方がずっと難しいのだ。なら、着火する前に防がねば。



「おい、どういうつもりだ?」















27:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:16:56.97ID:IOd+VqaJ0

虚ろな目で「アハハ〜」と再びテーブルに突っ伏す彼女。

その拍子に積み上がった缶の一部が床に転げたが、そこからは液体なぞ一滴も零れやしなかった。一体この缶達と何回ディープキスを交わしたのだろうか?



「明日は大事な式と披露宴だぞ?そんなんで出られるのか?」



ん〜?と唇を尖らせて見せ、頬をテーブルに擦りつける彼女。その頬と吐息の熱で白く曇る透明ガラス。そのまま溶けてしまいそうだ。



「自分が何やってるのか分かってるのか!!」



語尾を強めてみても全く動じない。気にしていないというよりは耳に入っていないようだ。



「おい!聞いてるのか!!」



相変わらずテーブルに突っ伏したまま、ごろんとこちらに背を向ける彼女。部下にこんな態度を取られるようでは上司失格だな。



「憂ちゃん!!おい憂!!」



Yシャツの首根っこ部分を掴み、強引にテーブルから持ち上げてこちらを向かせる。とろんとした目は明らかに焦点が合っていないが、そんな事はお構いなしだ。



「こら!!私の目を見ろ!!」



ん〜?とまたしても首を傾げる彼女。……だんだんイライラして来た。きっと梓もこんな感じで散々振り回されたのだろう。そりゃあ疲れるってもんだ。



「最近様子がおかしいと思ってたけど、まさかこんな事すると思って無かったよ……」



もう一度聞く、と前置きをし



「自分が何やってるのか分かってんのか!!明日は唯の披露宴だぞ!?そんなんで出られるのかって聞いてるんだ!!答えろ憂!!」















28:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:23:03.99ID:IOd+VqaJ0

そう捲くし立てる私。だが、何年振りかで上げたその怒鳴り声を彼女は軽くスルーし、満面の笑みでこんな事を言ったのだった。



「ぁたし〜、しきにもぉ〜、ひろうえんにもぉ〜、でっませぇ〜ん!」



……は?



「でないで〜、とうきょうに……かえっちゃいまぁ〜す!」

「な、何言って……」

「ねぇ〜……みぉたんもぉ〜……いっしょにぃ〜……ぴゅ〜〜〜ってぇ〜、かえろっ?アハハハハ〜!」



首を左右交互に傾げ、眉を八の字に反らせながらいつもの笑い上戸っぷりを見せつけて来る彼女。だが、不思議とその発言が偽りであるとはまるで思えないのだ。寧ろ真摯にさえ受け取れてしまう。

あまりにふざけた企画と提案だが、彼女は本気の本気でそれを口にしている。私には分かるんだ。伊達に一年間も同僚だった訳じゃないし、何より彼女は私の右腕なのだ。嘘か本当かくらいの見分けは付く。



「何でだよ……?唯の事祝いたくないのか?唯と喧嘩でもしたのか?」



ん〜ん、と首を横に振る彼女。

それが行って、来て、また行ってを繰り返した後、相変わらず焦点の合わない目が私を見つめる。眉も八のままだ。



「じゃあ……唯の相手か?」



その言葉にピクンと微かな反応があった。どうやら図星なようだ。脳が動いているのかどうかも疑わしいが、仮に動いていないのならば無意識下での回答という事になる。



「そうなんだな?」



真剣な眼でじっと見つめるが、その弛緩しきった表情筋は再び笑顔を形成してにへら笑いを繰り出してくる。



「あんなやつきえちゃえばい〜んですぅ〜!!も〜い〜よ〜!きえちゃえ〜!おね〜ちゃんにちかづくなぁ〜!」

「お、おい!何てこと言うんだ!おまえの義兄になる人だろ!?」

「アハハ!あんなやつがおに〜ちゃん?じょ〜だんじゃないっ!じょ〜だんじゃないよぉ〜!アハハハハ!」















30:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:28:14.35ID:IOd+VqaJ0

……ダメだ。このままででは話にならない。



「梓、どうだ?」

「ま、まだ立ち上がりません……。多分このパソコンめちゃくちゃ重いです……」

「じゃあ携帯でも調べてみてくれ。このままじゃ本当に式がぶち壊れる」



憂ちゃんが出席しなかった場合の唯のテンションなんて考えるだけ無駄だ。

それに出たとしてもこんな調子で暴走されてはひとたまりも無い。至って分かりやすく人生最悪のメモリーになってしまうだろう。

そんなラクーンシティーで行われる立ち食いパーティーみたいな式に立ち会うのは死んでもごめんだ。後の世の語り草になること間違い無し。ちょっと想像してみよう。



………………。



……うわ、ダメだ!そんなの絶対ダメだ!考えただけで地獄絵図もいいとこだ!

唯の笑顔を曇らせるのなら例えこの妹だって許すわけにはいかない。その為なら私は鬼にでも何でもなってやる。



……覚悟しろよ?憂ちゃん。





「助けてぇ……もうやだよぉ……」



真夜中の中野家リビング。只今絶賛拷問中。

聞き分けのない酔っぱらいの手首を縛り上げ、手当たり次第の毛布で包み、前後から石油と電気ストーブの熱波を浴びせ、休みなく水とグレープフルーツジュースを交互に飲ませている。

目隠しと称して装着させたアイマスクの端からはボロボロと涙が零れ落ちているが、そんなことは一切お構いなしだ。



「胃がはち切れても飲み続けるんだ。汗も枯れるまで掻け」



いやっ……!と拒む口を無理矢理開けてジュースを流し込み、三本目の一リットルパックを空にする。













32:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:33:19.35ID:IOd+VqaJ0

「も……もう大丈夫ですから……ほ、ほどいてっ……!」

「ダ〜メ」



玉のような汗が浮かぶ顔と髪が張り付く首筋をタオルで拭い、私もそれで自身の汗を拭う。

高かったお気に入りのシャツがびしょびしょだ。肌にぴっとり張り付いて心地悪いし、もういっそ脱いでしまいたい。



「先輩……これ本当に効くんですかね?」



私と同じく、憂ちゃんに強く抱きついておしくらまんじゅうを仕掛けている梓が訊ねて来る。こちらも火照り顔だ。



「知るか。これしか方法が無いんだからとことんやるしかないだろ」



重いパソコンと週末の夜中だけあってなかなか繋がらないネットを駆使し、酔い覚ましの方法をリサーチした梓が漸く導き出した答え。詳細は以下の通り。



一、とにかく汗を掻け。新陳代謝を促進して、肝臓の働きを活発にすべし。

二、水分を多く摂れ。果物系のジュースもよし。何度もトイレへGO。

三、気合と根性。酔いなど気の持ちようだ。どすこい。



……以上を最適な手段として考え会議を重ねた結果、出来あがったのが現在のこの部屋の状況だ。もうずっとストーブを全開で働かせ続けている為この部屋の室温は恐らく悠に三十度を超えているだろう。

その上で更に毛布に押し込まれ、逃げられないようにおしくらまんじゅうで拘束されている彼女の体感温度はいかほどのものか。

……まあシャツの中でたんまりと汗を掻いているから大丈夫だろう。



「これ……ひょっとしたら私達が保たないんじゃないですか?」



もう水分が染み込む余地も無い程のシャツで汗を拭う梓。若干涙目なのは気のせいでは無いだろう。



「キバれ。その分だけ明日の披露宴で飲む酒が美味くなる」

「一睡もしないで披露宴に臨むなんて無謀ですよ〜!絶対途中で寝ちゃいますって!」















33:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:37:38.61ID:IOd+VqaJ0

ごもっともだ。だがそれは私も同じ。



「安心しろ。お前が寝たらひっそりと瀬戸内海に捨てて来てやる」

「ひ、ひどっ!」

「タコとかも住んでるねん」

「意味分かんないですよ!」



その真摯な抗議をさらっと無視し、これで最後となるグレープフルーツジュールのパックを開封する。

梓に買いに行かせたそれももうすっかり常温だ。温い。……いや、熱い。



「さあ飲め憂ちゃん。嫌とは言わせない」

「も…………もうダメ…………飲めないよぉ……。澪さん……もう許して…………」

「ああ許してやるさ。このジュースと水を一リットルずつ飲み干して、四回くらいトイレに行ったらな」



その憂いを帯びてえらく官能的に感じる物言いに加虐心を煽られ、ついつい口調もキツくなってしまう。そして荒い息を吐きだす口の中へとジュースを流し込むべく顎を掴み、目配せして梓に頭を固定させる。



「あっ……あぁ……」



口から一滴も零させないよう、数回に分けて百ミリリットル程度の赤紫液を注ぎ込んだ。ついでに私も一口、梓にも一口。

チラと見ればまたしてもアイマスクの端から伝い落ちる涙。最早それすらも加虐心を煽るパーツにしか見えない。

そしてもう何度目かも分からない震えが彼女の体を支配している事に気付く。



「梓、トイレ」



その言葉を聞き、黙って毛布を取り払って憂ちゃんを立ち上がらせる梓。

身体の前で手首を縛り上げているスポーツタオルの端を掴み、トイレへと連行するその姿はさながら看守と囚人だ。













35:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:42:54.42ID:IOd+VqaJ0

「……五時か」



ふぅ……と息を一つ吐き出す。その息すらも熱くて堪らない。鼻孔を擽るのは三人の内誰の物ともつかない汗の匂いだ。

三人とも……いや、私と憂ちゃんは間違い無く運動不足だからing進行形で老廃物が出て行っているのかもしれないな。

……と、そんな事を思いながら部屋の隅に放置されたゴミ袋に目をやる。机の上に山積みとなっていたカクテル缶を全て放り込んだそれ。

あの缶の中身が全て身体に入ったというのだから恐ろしい。……私も控えねば。





『憂が……家に上がり込んでお酒飲んでるんです。止めても聞かなくてもう泥酔どころじゃないんですよ……。これじゃ明日は式どころか間違い無く一日寝たきりです……』





私の耳に飛び込んで来た深夜の超衝撃ニュース。そんなまさか……と思っていた矢先、梓が喋っている後ろで誰かが何事かを喚いている声が聴こえ、それはすぐさま私を突き動かした。

そして実際現場に来てみればこの有様。おまけにその原因が明日から義理の兄になる人間ときたもんだ。



……確かに憂ちゃんは前からその唯の婚約者があまり好きではないと言っていた。

あちらが憂ちゃんを快く思っていないだとか、唯とその人が付き合っているのが信じられないとか、そんな旨の控えめな言葉を酒の席で時折耳にしていたの思い出す。

挙式が近付くなるに連れてその話題を口にする事が無くなったのですっかり忘れていたのだが、もしかしたらそれが裏目に出てしまったのかもしれない。

一人で悩んで押し殺して、抱え込んで抱え込んで……とうとう爆発させてしまったのだろうか。それもよりによってこんな大切な日の前夜に……。



……だったら、私にも責任はある。よく分からないからと聞いたふりをして受け流していた自分が今更嫌になるな。

きっと誰も親身になって聞いてあげなかったから憂ちゃんは愚痴すらも言えずにストレスを溜めて結果こんな事をしたんだ。

考えても見ろ、憂ちゃんが愚痴をこぼす相手なんて誰が居る?最近は唯や両親と連絡を殆ど取っていないと言っていたじゃないか。ならば、今一番身近な人間が誰かなんて考えずとも分かる。

仕事もプライベートもべったり一緒で、酒を飲むのも必ず一緒な人間は何処のどいつだよ?東京の片隅で憂ちゃんと寄り添って生きてるのは誰だ?



……今、私が出来る事は一つ。自暴自棄になった憂ちゃんが後で自分が取った行動を後悔しないように、正しい方へと導くだけだ。

正直今実行しているこの作戦に一体どれ程の効果があるかは分からない。だが、もう時間も無いんだ。成功すると信じ込むしかない。それしかないんだ。















36:◆TTt1P6HN1I:2010/07/13(火)20:48:03.85ID:IOd+VqaJ0

二人が出て行ってから十五分程経っただろうか?開きっぱなしのドアから足音が聞こえて来る。



「先輩」



ボーっと自分の爪先を見て二人の帰りを待っていた私を呼び、梓がゆっくりとリビングに戻ってくる。その後ろについて来るのは、もう手も縛られていなければ目隠しもされていない憂ちゃんだった。



「だいぶ意識がはっきりしてきたみたいですよ。真っすぐ歩けるし、酔いもかなり醒めたみたいです。」



確かに。真っ赤に腫れた虚ろな目を見ればよく分かる。これは酔っている時の目では無い。叱られている時の子供の目だ。いきすぎた悪戯を咎められる時のか弱い目。

大方自責の念に駆られて猛省中と言ったところか。まあ作戦はおおよそ成功とみて間違い無いだろう。些か効き過ぎで気味が悪いが、憂ちゃんは元から酒には強い方なのでまあ納得するとしようか。



「……あ……あの……」



オドオドと立ち竦む憂ちゃん。どことなく肩を震わせている様な気がする。



「まあ座りなよ。怒って無いからさ」



それを証明する為に一応微笑んで見せる。



「……はい」



力無く答え、それに応じる憂ちゃん。梓はそれを見届けて二つのストーブの電源を切り、熱を逃す為に外へと続く扉を開いた。

それと同時に些か冷たすぎる空気が部屋に入って来る。まあこのくらいで風邪はひかないだろう。



「まあ……色々溜まってたんだな。こういう時もあるさ」



目を合わせずに床を眺めるだけの憂ちゃん。頷きはしない。















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